日本では誤解されている?:反知性主義

人文学

「バカって言った方がバカだもん」というのは小学生に代々受け継がれている定型句であるが、同じ構文である「”反知性主義”という言葉を使う人間こそが反知性主義者である」という表現も10年近く前から既に使われている。よく貶し言葉になる一方で、それは誤用でポジティブな意味合いもある、とされるこの「反知性主義」について今回は整理したい。

アメリカの反知性主義

といいつつも、この語に明確な共通の定義は与えられていない。
が、まずは正統とされるホフスタッターから始めるのが自然だろう。

反知性主義とは

1952年、アメリカ大統領選でアイゼンハワーが圧勝し、”知性に対する俗物根性の勝利”と言われた。
歴史家であるホフスタッターは、こうした知識人批判の風潮を分析した著書「アメリカの反知性主義」の中で以下のように記述している。

本書では、厳密な定義には固執しない。本書でそうするのはむしろ見当違いだろう。(中略)定義するには、重なりあう諸特徴からひとつだけを選り抜かなければならない。私が関心をもっているのは、この重なりあったもの自体―多くの接点をもつ、さまざまな心的姿勢と理念の歴史的関係を複合したものである。私が反知性主義と呼ぶ心的姿勢と理念の共通の特徴は、知的な生き方およびそれを代表するとされる人びとに対する憤りと疑惑である。そしてそのような生き方の価値をつねに極小化しようとする傾向である。あえて定義するならば、このような一般的な公式が役に立つだろう。

リチャード・ホーフスタッター「アメリカの反知性主義」p.6

よく太字部分が引用されていることが多い。ただ、前後にあるように、概念をむやみに狭めてしまわないようにとの意図で、ホフスタッターも積極的な用語定義をしようとはしていないことに注意が必要である。

そこで違った角度から理解を試みよう。
ここでいう”知性”とはどういうものか。ホフスタッターは”知性”と”知能”を比較している。

知性知能
よく一種の罵りとして使われる誰も価値を疑わない
知能を伴うときには称賛されるが憎悪されることも多いつねに称賛される
かなり狭い範囲に適用される優秀さ
評価の評価、さまさまな状況の意味を包括一つの状況の中での直接的な意味の把握、評価
「アメリカの反知性主義」p.21の記述より作成

“知性”がより高次、抽象的な思考を指していることは理解しやすいが、一種の罵り、憎悪の対象というと違和感が出てくるだろう。反知性の背景にある(根本的に誤った虚構の)敵意として例示されているものではあるが、以下のような対立軸を考えると、その憎悪のニュアンスがわかる。つまりは「青白きインテリ」への反発である。

知性は感情と対比させられる。知性が温かい情緒とはどこか相容れないという理由からである。
知性は人格と対峙させられる。知性はたんなる利発さのことであり、簡単に狡猾さや魔性に変わる、と広く信じられているからである。
知性は実用性と対峙させられる。理論は実用と反対のものだと考えられ、「純粋に」理論的な精神の持ち主はひどく軽蔑されるからである。
知性は民主主義と対峙させられる。それが平等主義を無視する一種の差別だと感じられるからである。

リチャード・ホーフスタッター「アメリカの反知性主義」p.41

知性と対峙させた感情・人格・実用・平等を重視する感覚、これらを蔑ろにされることに反発する感覚。これを反知性主義の根本の感覚と捉えるのが適当かと思う。

反権力としての反知性主義

こうした反知性主義は、特に知性と権力が結びつくときに発揮される、という見解もある。この二つの結びつきは、知性の独占・特権階級の固定化につながる。アメリカは王政・貴族の歴史を経なかった、むしろそのようなヨーロッパから脱却して建設された国家である。そのため一般的には反体制側である知識人層、聖職者層の体制側としての役割が大きく、知性と権力が結びつきやすい。こうした構成において、民衆に根付いた反知性主義が体制のチェック役となることで旧来の価値観を打ち破っていくエンジンとして機能した、と言われる。

日本における反知性主義

日本では内田樹編「日本の反知性主義」をきっかけにして誤用が広まった、という意見が散見される。
 (https://cruel.hatenablog.com/entry/2015/08/20/185544 など)
その中でも内田樹「反知性主義者たちの肖像」という文章は2016年の東大入試で採用されて話題となったが、その全文は氏のWebサイトに公開されている。
  http://blog.tatsuru.com/2020/09/03_1232.html
また、本書への批判に対しては、以下のようなコメントもされている。
  http://blog.tatsuru.com/2019/11/01_1825.html

本稿では特にこの論争は追わない。

日本では明確な社会群としての知識人は成立しなかった(丸山真男講演録より)。また、実学を重視する価値観が根差している。そのため、はっきりとした知性主義が存在せず、その対抗馬となる反知性主義も明確には存在しない、とされている。
とはいえ、ホフスタッターも反知性主義は「形や程度の差はあれほとんどの社会に見られるだろう」と言っている。日本でも、例えば、純粋無垢なところに真理がある、という価値観は存在しているように思われる(それを子供に向けるのは日本だけらしいが)。

参考図書・サイト

1.ホフスタッター「アメリカの反知性主義」
   https://www.amazon.co.jp/dp/4622070669
  まずはこちら。マッカーシズムに代表される1950年代の反知識人の風潮に対し、
  アメリカの歴史を辿って背景を分析している。
  まさにその時代の知識人であるホフスタッターにとって、その心情はいかばかりか。  
  日本では「この本に言及する人もあるが、引用されているのは冒頭の数頁」と言われる、
  物理的にも思想的にも内容的にも重い本。私はちゃんと最後の数頁も読んだ。
  要約はこちらのレビュー内にまとめられている。
   https://booklog.jp/item/1/4622070669#review_133262668

2.森本あんり「反知性主義 アメリカが生んだ熱病の正体」
   https://www.amazon.co.jp/dp/4106037645/
  ホフスタッターに近い内容とされている、読みやすい本。
  日本人向けの反知性主義の書籍としては代表的であり、各所で引用されている。
  反知性主義のポジティブな面を強調している。
  要約としては、以下の記事が概ね本書のあらすじを辿ったものになっている。
   https://liberal-arts-guide.com/anti-intellectualism/

3.アーカイブ社会学講義「トランプとアメリカの反知性主義」
   https://www.youtube.com/watch?v=7tkEiYkvEaY&t=2507s

4.小田嶋隆「超・反知性主義入門」
   https://www.amazon.co.jp/dp/4822279286/
  決して反知性主義の超入門と思ってはいけない、コラム集。
  現代の風潮を切り取ったものとして見ると目次だけでも趣深い。
    生贄志向:「選ばれたんだから諦めて、醜態を見せなさい」
    絆志向 :「みんなで咲いて、一緒に散ろうね」
    本音志向:「ホントのことを言っているんだから仕方ないだろ?」
    非情志向:「だって、ちゃんとチャンスはあげたよね」
    功利志向:「それって、どういう意味があるからやってるの?」

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